過去は消せない……だからこそ、その過去の上に自分が成り立っている
過去があるから、今の自分も未来の自分もいる
時計は、少し巻き戻って遡る
「痛っえよ!離せ!!」
無言でずんずんと進むアッシュは、未だその握力を緩めはしない。
生憎、明け方前という微妙な時間帯の為、少しルークが叫んだくらいでは眠る人々の耳元に届きはしなかった。
ルークの言葉には微塵も気を回さず、アッシュはただルークを引きずりバチカルの街を降りていく。
転びそうになるルークを引っ張りながら階段を下り、昇降機に乗って地表に近づく。
街の外に出るのかと思いきや次に乗ったのは天空客車で、バチカル港へと向かった。
往来のあるような時間帯ではないので、港に停泊する船はほとんどなかく海が広がる。
樽の並べられた一角で、ドサリッとルークは手首を離された。
「うわっ…」
いきなりの様子だったので、バランスを崩して尻餅を着く。
なんだか頭もクラクラする。
人に行動を左右されるというのは、とことん疲れることなのだなと別に知りたくもないのに知ってしまった。
掴まれた手首に目をやると、後がくっきりと残るくらいに赤くなっていた。
つらなかったのが、おかしいくらいだ。
「そこで、少し待っていろ。」
「はぁ?」
単にそう言うと、ここまで連れてきたのにアッシュはルークから離れてしまう。
一体何だって言うんだ?わからなすぎだ。
ルークの同意がないのだから、アッシュの先ほどの行動は誘拐とか攫うとかそう言ったことを当てはめてもおかしくないことである。
でも、何だか唖然としすぎて、逃げるとかそういう行動を起こす気がルークにはあまり起きなかった。
「着いて来い。」
それほど時間も経過せずに、アッシュは戻って来た。
しかし、出る言葉は相変わらずの傍若無人。
「どこ行くんだよ。俺はイヤだぜ。」
はい、そうですか。と着いて行ける訳がなかった。
アッシュが足を向けた先は紛れもない港の桟橋で、どうやって手配したかはわからないが、つまりは船に乗るということだ。
ルークとしては長い船旅を経て、やっと念願のバチカルに帰ってきたのにどうしてその場所から遠ざからなければならないんだ?と思うばかりである。
「ぐだくだ言ってねえで、さっさと着いて来い。」
そう言って声を張り上げ、またルークの手首を掴んで引いた。
「ちょっ……おいっ!」
ずるずると本当に引きずられるような音が立つ。
やっぱり逃げておけば良かった…とルークは大後悔した。
やはり強引に乗せられた船は、それほど大きな船ではなかった。
むしろアッシュとルーク、それと船を運転する男性以外の乗組員はいない。
良い言葉に聞こえるように言うと、貸しきり状態なのかもしれないが、ルークにはとてもそんなふうには思えなかった。
小さな操舵室で、アッシュと男性が何やら話しをしているが、あまり聞き取れない。
どうやら金さえ渡せばどこでも行くというらしいのだが、アッシュにとっては便利でもルークにとってはいい迷惑だ。
ルークがああだこうだ言っても、無情にも船は出港した。
段々とバチカルが陽炎にもなって行くように、ぼやけていった。
「マジかよ…」
ルークにとっては最悪の旅の始まりだった。
でも、こんな状態でも身体は正直で、色々な疲れがどっと出てきて船室で眠ってしまった。
ルークの頭に世界地図など入ってはいない。
元々、屋敷の外から出ることを前提とした教育は受けていないからだ。
外の世界に魅力的なものがあるとしたら、ルークは屋敷を出たいとより騒ぐであろう。
だから、地名は漠然と聞いたことがあるという程度の認識と、超振動によってタタル渓谷へと飛ばされてバチカルへ戻ってくるまでの場所程度しかわからない。
どこへ向かうのかとアッシュは言わなかった。
また、船を運転する男性に聞いても、口止めされているからと言って言葉を濁された。
随分と遠いところへ行くようで、ケセドニアへ立ち寄って食料品等の買い込みを男性はしていた。
ここでアッシュの隙を見てルークは逃げようかとも思ったが、金も持ってはいないし、何だかここまで来て逃げるのも癪であったので、おとなしく非常につまらない船旅を我慢することにした。
海ばかりを見ていると、やがてカイツールがそしてカイツール軍港も見えた。
立ち寄らずに過ぎ去っていく。
あのルークの始まりの場所である、コーラル城が遠くなっていく。
ルグニカ大陸つたいにぐるりと回りながら、南下していた船は一変北上する。
「そろそろだ。」
アッシュのその言葉が、潮風にかき消された。
自分自身がこんなことまでするだなんて、アッシュとしては不本意の一途でもあった。
自らの意思で封じ込めたと思われるルークは、記憶が戻る片鱗もない。
溶けない氷に包まれたルークの心。
失ってからわかる、この胸の痛み。
あいつが生きていれば、もういいと思っていた。
だが、この虚無感はなんだ?
吐き出す場所もない、嫌な思いだけが溜まっていた。
運転していた男性からアッシュへ、目的地に着いたと声がかかった。
ここか…とアッシュも一つ意識をおいた後、客室にいるルークを連れ出しに足を向けた。
「おいっ。甲板に出ろ。」
船旅に飽き飽きしだらだらとしていた筈のルークは、頭を抱えて震えていた。
怯えるように全ての器官を停止させるように、身を縮こめる。
「嫌だ……俺は行きたくない。」
ルークの様子はとても正常ではなかく、何もかもを全身が拒否をするように、そう言った。
何なんだ、一体これは…
知りたくもない。
知らなくてもいいことなんだと思わせた。
しかし、そんなことをアッシュが許すわけがなかった。
しかめた顔をして、ルークはあっけなく甲板に放り出された。
海上は穏やかな筈なのに、ルークは圧迫されるような感覚に落ちた。
視界に広がるのは建物や構築物でもない。
空と海と大地。
何の変哲もない場所である筈なのに、背中がぞわぞわする。
全身の毛が逆立つように怖気がやって来た。
「……ここはどこなんだ?」
視界が回る。
気を紛らわせたくて何か別のことを考えていたいのに、それも出来なく、ただ実感だけがシコリとなって頭に残る。
もう、耐えられない。
とても居られなくて、立っているのもやっとで足が竦む。
苦痛に顔が歪み、心が汗を掻くように緊迫した。
「ここは、アクゼリュスだ。」
「ア…アクゼリュス………?」
その言葉を言ってはいけなかった。
認識してはいけなかった。
だだの街の名前という識別で、心の奥底に眠らせておいておいた言葉が蘇る。
見てはいけない!と脳から命令が下り、ルークはその腕で視界を覆った。
「目を背けるんじゃねえ。そんなところに閉じこもって、逃げられるとでも思っているのか?
これが、おまえの罪の証だ。認めろ!」
現実から逃げるルークを知らしめる様に、アッシュは腕を退けさせた。
ルークのぎゅっと瞑った筈の瞳を開かされて、今度こそ展望が開かれて余すことなく全てを見せ付けられた。
切り立った大陸はすっぱりと切断されて、その断面と深い海が広がる。
かつてあったと思われる街道をも切り取られて、何もかもが元からないようにまっさらと存在する。
亀裂を立てて飲み込まれた大地の崩壊により、ぽっかりと無意味に広がる空間。
何もない…何も残ってはいない。
人が、生きた証ですら。
全てを抉り取られた…未来も過去も。
ルークの、瞳の焦点が絞られた。
「あ……ああああああ……………」
深海に沈んだ宝箱から記憶をこじ開けるように、情報が引っ張り出される。
情報を脳裏に一気に叩き込まれた。
頭が、かち割れそうだ。
そうだ
俺はここを知っている
俺が全てを奪った場所だ
身体は覚えていない。
だが、心が覚えていた。
ルークの行った軌跡は、消えない。
どんなに罪を償おうとも元通りにはならない。
禊をしようとも、全く同じ痛みを称えられようとも、償いと許しを得られるわけじゃない。
一度、汚れきってしまった手に浄化の道はない。
罪は誰でも持っている。
それを認められるかで、人間の本質が決まる。
「自分を認めろ!ルーク!!」
その名を、呼ばれた。
誰よりも認めて欲しかった、アッシュに…
ドックンッ
極限まで高鳴る心の臓。
まるでそれ自身が意思を持っているかのごとく、うごめいた。
最後の鍵が解かれ、扉が開いた。
深層意識に沈んでいたルークが、陽だまりの下に帰った。
「アッシュ……ごめん。俺……………」
息苦しく搾り出した声。
だがそれ以上にルークの持つ瞳が、何よりもの証拠であった。
「やっと、戻ってきたか。」
ぐらりと倒れこんでしまったルークは、抱き止めたアッシュの腕の中で意識を飛ばした。
これで終止符が打たれていたとしたら、どれだけ幸せだったであろう。
アトガキ
2006/03/03
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