彼の姿を直視する前に反射的に、ルークの身体が動いた。 実体は無いのだがそれでも地面を蹴るように早く、教会の崩れかけた外壁をすり抜けて逃げる。 さきほどまであれほど人間らしく振舞おうとした影は微塵も無くなり、ただがむしゃらに遠ざかった。 後々によく考えれば音譜帯へ行けばよかったのだろうが、宙に飛び上がれなかったのは驚きすぎたのと、ほんの一握りの思いが足を引っ張ったから。 心臓の動悸が尋常じゃない。 行き着いたのは枯れた古びた井戸の前で、ルークは息を整えるためにふわりと宙に浮かんだ。 大体地面からニメートルぐらいのところまで軽く上がる。 第七音素集合体になってからはこうやってしていることが多いので、この方が落ち着くからだ。 それでもこんな状態になってから肉体的な辛さ等は感じないようになっているのだが、とても珍しく心に左右されてしまった。 まさかこんなに簡単にアッシュが近くにいるだなんて… アッシュの居場所をルークは知らないし、何をしているのかも知らされていなかったから。 「おい、降りて来い。」 そんなルークに声をかけたのは、残念ながら当のアッシュであった。 浮いているルークの斜め下で、こちらを見上げるように立っていた。 出来ればルークだって後ずさりして逃げたかった。 しかし、アッシュは抜刀しており、右手で握り締めている。 まさか斬りつけたりはされないだろうし、それ自体はルークの身体に届かないので別に痛くも痒くもないのだが、最終手段としてアッシュほどの使い手に超振動なんて使われたら、体内の第七音素が干渉して不味い。 仕方なく了承したように、ルークはゆっくりと地面に降りた。 「えーと二年ぶりぐらいだっけ。そっちは元気にしてた?」 「それはこっちのセリフだ。今までどこに行っていた?」 重い雰囲気を和ませるために軽く行ってみたルークだったが、世間話などするつもりはないとでも言いたそうなアッシュはさっさと自分のペースに持って行った。 いきなり居なくなったこのレプリカの存在を、探していなかったといえば嘘になるから。 「ほら、俺死んだんだし。一応、音譜帯にいたんだよ。今はちょっとローレライの仕事の手伝いで、こっちにいるけど。」 やはり悲しい事に言葉もアッシュには伝わるのだなと感心しながらルークはしゃべった。 さきほどオアシスで試しに何度か発声したが、誰にも認知されなかったから少し嬉しくも感じる。 音譜帯に到るまでの昨今は色々とあったが、説明をしてもどうせ悲観的にしか聞こえないだろと思ったので簡潔に言った。 「お前もあの少女の件か。」 「え、アッシュもそうなのかよ。見たところ一人で行動してるみたいだけど、お付はどこで待機しているんだ?ナタリアもそうだったらしいけど、自国じゃないのにこういうところを一人で歩くと側近がうるさいらしいから大変だろ。」 そういえばさっきから一人だったなと、思い当たる。 アクゼリュスへ向かうときはうやむやでナタリアはルーク達についてきて自由に振舞っていたが、本当なら身の回りの世話をするお付やら警護を固める兵が周囲にぞろぞろといるらしい。と何度かルークは聞いた。 ルーク自身は長らく軟禁生活を送って監視されていたので、そういう話を聞くとうんざり感がしたのでよく覚えていたのだ。 「何を勘違いしているか知らないが、俺はずっと一人で行動している。」 勝手に感心しているルークに難色を示して、きっぱりとアッシュはそう言い切った。 「よく、それ父上や母上が了承したな。スゲーよ。」 「了承するも何も、俺は王族という身分はとうに捨てたからな。自由に動いているだけだ。」 ヴァンに攫われたときからそれは決めていた事で、今更戻ることもないし、俺は必要じゃない。 叔父上やナタリアが精一杯尽力しているのを横からしゃしゃり出ることもない。 そうアッシュは付け加えた。 「そんな。じゃあ今は、何を…」 驚愕のアッシュの言葉にルークは呆然と言葉を発する。 気にしなかったわけではないが、それでもアッシュは屋敷で王族として本来の姿に戻っていると思っていたんだ。 それが生まれたときから定められていた彼の宿命で、自分がいなくなったらそうなるのが当たり前だとずっと考えていたのに。 やはり彼の人生を狂わせたのは自分だったのだと実感する。 「噂でここの少女のことを聞いた。預言の問題は、ローレライ教団に所属していた俺の問題でもある。だから解決しに来た。」 それはルークと全く同じ目的だった。 「アッシュに具体的な案はあるのか?」 「まずは、実情を見てからだな。」 短く切ったアッシュの言葉を受けて思い出す。 そうだ、俺が逃げてしまったからきちんと会ってないんだ。 目の前のことを解決するために、何年かぶりに肩を並べて二人は教会に戻った。 「いない?」 再び訪れた教会に今度は二人揃って足を踏み入れたのだが、肝心の少女は見当たらなかった。 見回すほど広い場所でもないので、一目見ていないことがわかった。 ずっと岩のように動かなかったのに、一体どこに。 「母親のところにいくぞ。」 一回りだけした後、アッシュはそう言った。 「あ、待てよ。アッシュ。家を知ってるのか?」 「ああ。先にそっちに行って医者を置いてきたからな。」 至極当たり前のようにアッシュは言った。 立地が悪いせいで、ろくな医者がこのオアシスにはやってこない。 こういう言い方は悪いかもしれないが、少女に父親はおらず元から医者に見てもらうような備蓄もなかったので余計に自体を悪化させ、結局神に祈る事になってしまったのだ。 少女の行為も問題ではあったが、まずは死に瀕している母親を助ける事が優先で、先手を打ったのだった。 「お前は…事実を受け止める勇気があるなら、ついて来るんだな。」 意味深なことを口走るアッシュだったが、今深く追求しているような時間もないし、今更行かないわけにもいかなかったので、黙ってルークは着いて行った。 想像通りと表現するのは失礼かもしれないが、少女の家は他の軒並みと同等…いやそれ以下かもしれない佇まいの家だった。 黒ずんだ木造ではあるようだったが、背が若干低く造られており、以前より少し身長の伸びたアッシュは頭を一つ分下げて中に入るようだった。 室内は部屋と呼べるような区切る空間はなく、ただ奥に低く小さな簡易ベッドが添えるように置いてあった。 「どうだ?」 処置を終えたと思える初老の医者にアッシュは、病人を気にかけてわざと小さく問いかける。 ルークも非常に気になったが、どうせ医者には声は伝わらないので、喉元まで押さえた。 「…現状出来る必要最低限の処置はしました。ですが、永くはないでしょう。」 目の前に横たわる母親と見られる女性は、既に寝ているのか亡くなっているのかもわからないくらい痩せこけて疲弊している状態であった。 おそらく随分と長らく病状についていたのだろう。 気休めをしただけと言う医者は、同時に首も横にふる動作をした。 「そうか。それと、この母親の子供は見なかったか?」 「それが…先ほどまでここにいたのですが、ザオ遺跡に向かったのだと思います。」 アッシュの言葉を受けて、口ごもりながらも医者は答えた。 「ザオ遺跡、なぜそんな場所に?」 意外な場所の名が出てきて、アッシュは声を上げた。 このオアシスからザオ遺跡まで、子供の足では随分と遠い場所だ。 「実は、少女のところに旅の預言者が来まして、ザオ遺跡に母親の病状を良くする薬草がある。と詠んだのです。それを真に受けて… 私も止めたのですが、なにぶん目の前の病人を放っておく事は出来ず、行ってしまいました。」 タイミングが悪すぎたのだと、残念そうに医者は言う。 少女に母親の死期をはっきりとは伝えていないが、近づいている事は素人目でもわかるだろう。 そんな中で預言に頼りきっている彼女に救世主のような言葉が聞こえてくれば、藁にもすがる思いになる気持ちはわかる。 しかし、ザオ遺跡という場所は少女どころか普通の大人でも中に入るのは難しいところだ。 凶暴な魔物がうろついているという話を聞いた事がないわけではなかろう。 預言を詠めば行く事は安易に想像できただろうに、そんな場所に行かせるということ自体考えられない事だった。 「その薬草…というのは本当に存在するものなのか?」 「ザオ遺跡の奥地にそういったものがあると噂は聞いた事があります。確かに症状を緩和して苦しみを安らげることは出来るかもしれませんが、根本的な解決にはならないと思います。」 古びた書物にもそれに該当されしき薬草はあったが、それで治るようならとっくに量産化や栽培をしているだろう。 望みは限りなく薄かった。 「治る方法はない…というわけか。」 鈍い顔をしながらも、自分を納得させるかのようにアッシュは呟いた。 「残念ながら、そういうことになります。少女から話を聞きましたが、元々アクゼリュス付近に住んでいて崩落した大地から湧き出る障気中毒で今の状態になったようです。現在、このような症例に対して具体的な解決策は見つかっていませんから。」 「アクゼリュス!?」 思わず発してしまったルークの言葉はアッシュにしか聞き取る事は出来なかったのだが、それをわかっていてもアッシュは顔をゆがめる。 死んでも色あせることのない…終わってなんていなかった。 手を下したのは間違いなく自分で、重くのしかかってくる。 逃げ遅れていた何万人もの人間の命の、ルークは引き金を引いたのだ。 泣く声も叫ぶ声も直接は聞こえなかった。だからこその恐怖。 忘れもしないし、忘れる事は決して許されない恨みが聞こえ続ける。 そう、あのアクゼリュス崩壊の被害者の一人が目の前に居て、自分の罪を再び突きつけられたのだった。 アトガキ 2008/05/30 back menu next |