その日、アッシュは極力部屋から出ないように心がけていた。 アッシュ本来の気質が出不精ということは全くない。 むしろ何事をするにも自分の目で耳で確かめることが確実だという信念を持っているため、こういった日は本当に珍しくあった。 そう…バレンタインという今日この日は アッシュが苦手な日であった。 コン コン コン 典型的なノックのされ方が、アッシュの自室に響いた。 「何だ?」 調べ物を書きとめていたアッシュの右手が止まり、扉の向こうへと意識が傾く。 「アッシュ様。先日お探しの依頼を受けた書籍が、バチカル城の図書室に入館しましたのでご報告に参りました。」 声の持ち主は執事であるラムダスであり、明瞭に言葉を発した。 「…わかった。下がれ。」 少し言葉を溜めた後、アッシュは了承の意図を返した。 アッシュの返答を聞くと、一礼をしてラムダスの足音がやがて費えた。 普段のアッシュならば、こういった報告を受けたらすぐさま次の行動へと移るのだが、今日は足取りが重くなる。 バレンタインという日に女性に会うと、嬉しくないが高い確率でチョコレートを渡されるのだ。 義理なら構わない。 こういったものを儀礼的と考える者もいるのだから。 だが、明らかに義理ではないと思われる女性からのアタックは非常に困る。 当人たちには非常に悪いが、アッシュに色恋沙汰は興味がない。 受け取っても気持ちを返すことが出来ないのだから、アッシュは今まで全て断りを入れて受け取ってはいなかった。 しかし女性というものはなかなか諦めが悪いものでもあり、毎年恒例でやっぱり渡されるという現状も続いていた。 少し嫌な気持ちが続いたが、いつまでもそんなことをしている場合ではない。 ラムダスが言っていた書籍とは、アッシュがもう随分と前から探しているものでもあり、近い話が明日の公務でも必要と思われる書籍であった。 先延ばしには出来ない。 書き物をしていた右手を颯爽と動かし、アッシュはまとめだけを記入して閉じた。 立ち上がり、ファブレ公爵邸からバチカル城の図書室を目指す。 これだけの短い距離であるからして、流石に何も起きないだろうと、アッシュは高をくくっていた。 「これ、受け取って下さい!」 バチカル城内の片隅で、不謹慎とも取れる女性の声が響いた。 その音質は、痛烈に切実であった。 一瞬びくりとしたアッシュであったが、この声はアッシュに向けられた言葉ではなく安堵した。 かなりの遠目であるが、通路の奥に誰かがいるようで、チョコレートと思しきラッピングを施した小奇麗な小箱を女性が両手で差し出しているのが見えた。 バレンタインというイベントは、城内であろうが場所を問わないらしい。 場所を弁えずにアタックすることが出来る女性たちの勇気は、ある意味アッシュも感心出来た。 立ち聞きなど、全く持って趣味ではない。 興味もないし早く立ち去ろうと、アッシュは止まっていた足を踏み出そうとした。 「え…俺?」 聞き覚えの在り過ぎるその声を耳で感じ取って、ざわりとした妙な感覚がアッシュにやってくる。 戸惑いの声を発したのは、紛れもないルークであった。 こういったことに慣れていないらしく、声に軽い動揺が見られる。 いつまでも受け取らないルークに、トンッとほぼ強制的に小箱が押し付けられた。 支えが無くなり落ちそうになる小箱を、反射的にルークが取ってしまう。 そうして、女性は恥ずかしそうにバタバタとその場を立ち去ってしまった。 残されたのは呆然となるルークと、嫌な場面を目撃してしまったアッシュであった。 ―――――イライラする 図書館の一番人目のつかない場所で、アッシュの思惑はその一点に絞られていた。 この胸中がわからないということが一番のイライラの原因であるのだが、だからこそ気分は一向に回復しない。 目的の書籍は直ぐに見つかることが出来、それは喜ばしいことであるはずなのに全くそのような感情も浮いてこなかった。 ページをめくる手つきが、普段より荒々しくなる。 一応、貸し出しが出来る書籍であるので、何も図書館で読破する必要もないのだが、アッシュは屋敷に戻りたくはなかった。 屋敷に戻ると、ルークがいるから。 「くそっ…」 バレンタインであるのだから、チョコレートを渡す場面を見るということは無きにしも非ずであった。 もう少し人目を考えろとも言いたいが、今重要な部分はそこではない。 相手がルークであったということだ。 自分も貰うのであるから、ルークがチョコレートを貰うということは別段おかしいことではなかった。 だが、あんなにあっさりと受け取って… 受け取るか受け取らないかは、人によって認識が違うから一概に悪いというわけではない。 過去には色々とあったが、今のアッシュとルークは同じ屋敷に住んでいるものの、外面的には子爵として別々に公務をこなしている身であり、他に観点はない。 だから、口出しをする義務も義理もない。 だが、何なんだ。 この名前付けられない感情は? そう思うと、ますます集中出来なくなる。 意識をなるべく真っ白にして、アッシュは無理やり意識を書籍に疼くめた。 結局、全てを読み終わることが出来たのは、図書館が閉館する夕刻近くになっていた。 普段より遅めの帰宅を果たしたアッシュを、屋敷の玄関で待っていたのはラムダスであった。 いつもは整列しているメイドたちはおらず、夕食の支度やらで忙しく屋敷内で仕事をこなしていた。 「ルーク様が、アッシュ様の部屋でお待ちです。」 待ちかねた様子のラムダスは、それを告げた。 アッシュは非常に嫌そうな表情をし、返事を返さなかった。 いつも犬のようにアッシュにひっつくこともあるルークのその行動は、珍しいことではなかった。 ウザイと言っているのに、ルークはやたらとアッシュにかまってくる。 以前はもっと頻繁に拒否を示していたのだが効果が薄くなって、最近では面倒であるから適当に本人の好きなようにやらせていた。 アッシュもルークも見た目は一緒であり、鏡で見慣れているだろうから、別に面白いことなんてないであろうに、何でそんなに自分に近づくのかアッシュにはわからなかった。 兄弟…というフレーズを当てはめるのなら、何となくはわかるような気もしないではない。 しかし、そうともなかなか取れないルークの様子は未だアッシュには掴めていなかった。 数時間前のバチカル城の一件が心にあり、ルークと会うのは微妙に嫌ではあったが、仕方ない。 同じ屋敷に住んでいる以上、会うということは避けられないことである。 それが早いか遅いかという表面上では、些細なことであった。 隣同士に作られた、右の部屋に入る。 ここは、アッシュの部屋だ。 アッシュは無断でルークの部屋に入ることなどまずないが、ルークはかなり無断でアッシュの部屋にいたりする。 扉を開けると、ラムダスの言葉どおりにルークはいた。 嫌なオプションを持って。 「アッシュ。今日は遅かったんだな。」 座っていたベッドから立ち上がり、ルークはいつも通りのようにそう話しかけてくる。 「早くても遅くても俺の勝手だ。で、おまえは何で勝手に人の部屋にいるんだ?」 いつもはこのくらいのことを、問い詰めたりしない。 ルークがアッシュの部屋に居るということは、慣れという言葉が適用できるほどであったから。 だが、アッシュの今の心境はそんな安易な言葉を適用することは出来ない状態であった。 「あ……ごめん。俺………」 アッシュの不機嫌さをルークも瞬時に読み取れたようで、いつもの元気を落とした。 何だって言うんだ、一体。 ただルークがこの部屋に居るだけというなら、アッシュだってここまで声を悪くはしなかった。 だが、ルークの左手が持っていた物が不味かった。 バチカル城で受け取った小箱。 それを持っているが、アッシュの機嫌を最高に降下させていた。 「おまえ……見せびらかしてんのか?」 イライラも最高潮に達する。 とうとうその皮肉の言葉をアッシュは口に出してしまった。 「見せびらかす?何のことだ?」 まるで本当にわからないような反応をルークは見せた。 それがますますアッシュの感に触るとも思わずに。 「てめえが受け取ったチョコレートだろうが!後生大事に、自分の部屋で食べてりゃいいだろうが!!」 アッシュの口調が鋭くルークに突き刺さった。 アッシュはよくルークに怒る。 だが、今回のこれは怒るの限度を超えていた。 激情が疾走する。 そんなに大切か?肩身離さずに持つほどに。 バレンタインにチョコレートを貰って、喜ぶのは個人の自由だ。勝手にすればいい……と なぜかアッシュは、そう漠然とは思うことは出来なかった。 「違うよ!俺が、この小箱を持ってきたのは……これがアッシュのだから。」 びっくりして、ルークは必死に訴えた。 「…どういうことだ?」 「この小箱を渡した人…アッシュと俺を間違えていたんだ。 だから、俺。これをアッシュに代わりに渡そうと思って。」 勘 違 い ? やっとルークの言葉を頭に吸収することが出来、アッシュの頭の中にはその単語がこだました。 何だか酷い間抜け顔を晒している気がする。 こんな無様な姿を、見られたくなかった。 「だから、アッシュこれを…」 おずおずとルークは小箱をアッシュに渡して来た。 「俺とおまえを間違えるような女なんかに貰ったもの、受け取れるか!捨てとけ。」 何とかそう言い放つ。 その場にはとてもいられなくなったアッシュは、バンッと扉を閉めて出て行った。 顔が赤い… これは怒ったせいだと、思わせる。 オールドラントの衛星ルナが満月のこの夜。 バレンタインにアッシュが受け取ったのは、チョコレートではなかった。 確かに芽生えるこの胸の自覚が いつまでも…くすぶっていた。 アトガキ ルーク、報われてない…すみません。ほんのりバレンタイン話ということで。 2006/02/14 menu next |