ここは鏡の中の世界だと、目の前のルークから教えられた。 アッシュの心に余裕があったなら、首を一度傾げていたかもしれない。 それほど、屋敷の外へ出た光景は何ら変わりがなかったのだから。 「じゃあまずローレライ教団の教会に行くからついて来てくれよ。」 少しあたりを見回すアッシュへとルークは声をかけた。 「ああ。」 短く声を返すが、視線は外へと注がれる。 ルークという人間が自分とまったく同じ顔で自分のレプリカで、導師イオンも鏡の中の世界の住人だと聞いた。 そして先ほど会ったガイなどはアッシュの知っているガイ・セシルとは慇懃すぎず全然違う人間のようにふるまっていたから、外の情景も何かしらの変化が見られるのかと思いきやそうではなった。 改めて外から見るファブレ公爵邸も間近に迫るバチカル城も昇降機の下へと広がる城下町も人々も何一つアッシュの見知った光景と同じだったのだから。 ただ、知っている人が違う。それだけなのだろう。 この世界の必要性、もしくは自分の世界の必要性をアッシュはまるで聞いていない。 ただ存在するのだ、確かに。 優劣をつけるようなものではないと、それでは生きて歩いてわかった。 ルークに言われるまでもなく、バチカル城下町の一角にあるローレライ教団の教会の場所をアッシュは見知っていた。 それでもルークが嬉々として先頭に立つので、歩調の違う彼の後を少し離れてついていく。 行き飼う人々の賑わしさは、やはり変わらない。 季節さえもこちらの世界と同じならば、もうすぐ祭りも近いだろう。 中央広場の噴水あたりまで降りてくると、一番人の行き来が激しい往来となる。 皆、忙しく仕事に励んでいたり子供が駆けっていたりと騒がしくもあるのだ。 わずかに水の跳ねる噴水の横をアッシュが通りかかったとき、思わぬ人物の姿が目のとまって驚きに声を出した。 「ナ…ナタリア?」 疑問形でアッシュが呼びかけるのも無理もなかった。 豊かな噴水の横に寄りかかっているのは、金髪で緑瞳の女性はまぎれもなくナタリアであるはずだった。 ただ、アッシュの見知っているナタリアは一人で無造作にバチカルの広場にいたりはしない。 まして彼女は王女なのだ、それを誰もが黙って見過ごすわけがない。 また、ナタリアの服装もいつものドレスとはかけ離れていた。 よく言えば動きやすい恰好なのだろうが、綿の暖色系の軽装に飾り気のない大きい麻袋を横に携えている。 幼馴染として見知っているアッシュでなければ、今のナタリアに気がつくことは到底不可能だったと思われる。 それぐらい違っていたのだ。 彼女の前で、立ち止まって僅かに手を伸ばしたが、そのままアッシュは身動きすることが出来ない。 それに彼女は名前を呼んだはずなのにまるで気が付いておらず、いや気がついたのはアッシュが不思議な動作で立ち止まっているからであった。 「…もしかして、ルーク?まぁ、いつの間に髪伸ばしたの。」 まじまじとアッシュの顔を見て、合点がついたように名前を呼ぶ。 「あ、いや…俺は………」 確かに顔はルークと一緒だが、自分はルークではない。 どうしようかと返事を先延ばしにしていたところに、別の声がかかった。 「あれ、メリル。久しぶりじゃないか、バチカルに戻ってくるなんて。」 それはルークで、アッシュとの間に入るように戻ってきたのだ。 「ルークが二人?」 メリルと呼ばれて女性は気味悪がるわけでもなく、ただ不思議に思う。 「あーこいつはアッシュって言って、俺のオリジナルなんだよ。訳あってこっちの世界に来たんだ。」 「まぁ、私オリジナルを見るのは初めてですわ。本当に似ていらっしゃるのね。はじめまして、私はメリルですわ。よろしく。」 そう言って、メリルは気さくに声をかけてきた。 「…メリル?ナタリアじゃなくて……」 折角自己紹介してもらったのに悪いが、その名前に違和感がありすぎて、アッシュは奇妙に反復した。 姿も声もどうみてもナタリアなのだ。 絶対に間違えるはずがないのに、それでもメリルという聞き覚えのない名前を真っ直ぐに言われてしまった。 「ナタリア姫と間違えられるなんて光栄ですわね。確かにナタリア姫とは同い年ですけど、お姿はルークの方が似ていると思いますわよ。二人はいとこ同士なんですから。」 にっこり笑ってメリルはそう答える。 「ナタリアが別にいる?………」 疑問が疑問を浮かび上がらせるように、メリルの口からもたらされた言葉はアッシュの心にわだかまりを作った。 「…おい、アッシュ。」 ここで名を呼んだのはルークで、呆然と立っているアッシュの服を引っ張るようにこちらへ 引き寄せた。 そして、メリルには聞こえない音量で小さくアッシュに耳打ちをする。 「アッシュのいた世界と鏡の中の世界は似ているようで違うところもあるんだ。ナタリアが違うことには驚いただろうけど、そっちの世界の事は話さないでくれないかな?」 ルークはすべてを知っている。 ローレライの鍵の継承者としてオリジナルを見知っているし、自分のかかわりのある人物がオリジナルの世界では今どんな立場なのかも理解している。 だから、だからこそ、ナタリアの状況が良いとも言えないし悪いとも言えないでいたのだ。 何かを知ってしまって、それこそイオンのようにオリジナルとレプリカがまた何かを起こすことをルークは望んではいなかったのだ。 自分勝手かもしれないが、だったら何も知らないでほしかった。 知ることすべてが良いことではないと、どこかで悟った自分がいるのだから。 「…わかった。話を合わせよう。」 その場で深い理由を聞きはしなかったが、ナタリアに関する何らかの事情はルークの口調から読み取れた。 元々べらべらとおしゃべりをするようなタイプでもないので、アッシュは差し障りのない会話に押しとどめることにしたのだった。 「何を二人でこそこそ話しておりますの?」 「い、いやーほら、アッシュがさ。ナタリアがこんな普通なのに、言葉使いが随分丁寧だから驚いてて…それを説明しようと思ったんだよ。」 いぶかしんでくるメリルをかわすためにルークは適当に思いついた言葉を明るく口走った。 「まぁ、そうですわね。確かに友達からも言葉づかいの事はよく聞かれますわ。アッシュも不思議に思われましたのね?」 「…、あ、あぁ………」 正直、メリルの口調が丁寧過ぎて不思議だとはアッシュは微塵も思っていない。 むしろ自然だ。自然すぎる。 アッシュの中でメリルはナタリアで王女で、この口調こそいつもどおりなのだから。 しかし、さっきルークと話を合わせると打ち合わせた以上、一応その通りに言っておく。 「私、普段は父のキャラバン隊の仕事を手伝っているのですが、母と祖母は王宮に勤めておりますの。だから言葉づかいはきちんとしないと怒られてしまうのですよ。」 「………そうか、大変だな。」 メリルは身の上を説明してくれるだが、内心アッシュは驚いている。 キャラバン隊がどんな仕事をしているのかもちろんアッシュは知っているから、その手伝いをあのナタリアがしているとなると、今日はそれほど暑い日というわけでもないのにどこからか立ちくらみがやって来そうであった。 「あら、ごめんなさい。ルーク、アッシュ。バダックお父様が迎えに来て下さったので、私はそろそろ。二人とも、またお話して下さいな。」 「あぁ。じゃあ、またな。」 遠い場所で、父の姿を発見したと思われるメリルは素早く立ち上がる。 ルークはぱたぱたと手を振りながら、メリルを見送ろうとする。 「ちょっと待ってくれないか?」 「あら、何ですの?」 思いもがけず、アッシュに呼び止められてメリルは振り返った。 「一つだけ聞かせてくれないか。…ナタ………いや、メリルは今幸せか?」 自分でも何を馬鹿なことを聞いているんだと、アッシュは思った。 だが、自分の見知ったナタリアと目の前のナタリアは微妙に違うところがあるが、それでも根本は一緒だと思ったのだ。 だからこそ、聞いてみたかった言葉−−− 「ええ、もちろん。幸せですわよ。」 そう微笑みかけて返事をすると「では」と一声かけて、ナタリアは人ごみに姿を消した。 その先にいた、ラルゴの姿まではアッシュは見なかったのかもしれない。 アトガキ ナタリア(メリル)登場編終了。次のキャラに続く。 2009/07/01 back menu next |