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  ルスランとリュドミラ  2










パラリと1枚の紙をめくる。
肌触りのよい光沢紙である、そのパンフレットでのアッシュの扱いは半ページほどであった。
元々分厚いパンフレットというわけではなく、曲目とそれについての説明、地元に馴染んでいる交響楽団ということで、個人の寄付者名前や少々の企業の広告などが目立つものなのだ。
そんな中でソロヴァイオリニストとしてのアッシュのページ料が割かれていないのは仕方のないことなのだった。
硬貨ひとつ分より小さい楕円形にアッシュの写真が一応はあるが、愛想はさして良くないし、写り事態も微妙なピンボケをくらっている。
ここは客商売として多少なりとも笑うのが世辞というものであるとは思うが、彼はそんなことまるで気にしない様子をしめした。
それでもそこいらの男性よりはよっぽど整った顔立ちをしているので、非常な仏頂面ではなかったのが唯一の幸いというところであろうか。

今日の公演が終わると、アットホームな雰囲気を醸し出すこの交響楽団ではロビーで演奏者との多少の会話をすることができる。
ルークは、もちろんのこと、まるでアッシュを見知っていない。
今日、演奏を聴き、初めて知ったという次第で、したがって少しの希望を持って人々の集まるロビーへと向かったが、アッシュはいなかった。
さすがに花束の一つも持たず、楽屋に押し掛けられるほど、ルークは傲慢な性格ではない。
それに、もし奇跡的に会えたとして、一体何を自分はしゃべるのだろうかと、そこからまず戸惑いの元なのだ。
多分自分は極めて月並みな感想しか言えないであろう。
ヴァイオリンに関する知識は、そりゃ一般人よりは持っていたが、どんなに適切そうな言葉を並べても、この感動を口で表現するのは極めて難しく感じたのだ。
それで終わりだった。
忘れたわけではなかったが、彼と自分の立つ舞台があまりにも違い過ぎるので、近づくことなんてまるで考えられるわけがなかったのだ。
世の中というものは便利である。
今何か調べものをしようとすれば、専門雑誌もあるしインターネットもある。
だが、あえてルークは改めて彼を知ろうとはしなかった。
もう何年も離れていた、この世界に再びこれ以上深入りするのが怖かったのだ。



そしてアッシュをもっと知れば、きっと………
憧れてはいけないと警鐘が鳴るのだ。











ぶんぶんっと、慌ててルークは頭を振った。

何だ。何、今さら数か月も前のことを思い出しているんだ。
おかしい…と思ったが、しばらくぼーっとしていると合点した。
ここはルークの勤めている会社の事務所であり、そこの有線がクラシックだったのだ。
改めて意識すると、確かにいつもここの有線はクラシックだったと思う。
外国車を販売するディーラーとしてショールームを併設しているのだから、お客さまに聞こえる音楽はそれに伴ったものでなければいけない。
あいにく、自社の車の良さを大々的に宣伝するBGMを用意するような、軽い雰囲気を社風としていないので、必然的にクラシックに落ち着くのだ。
ルークは、ディーラーとして外回りをするのがメインなので、事務所に居るのはお客様が来店する前か後のどちらか二極端なことが多い。
こうやって太陽が高い時間にじっくり自分の机に腰を落ち着けるのは、そう言われてみれば初めてかもしれない。
ルークにももちろん予定はあった。
霊柩車という特殊仕様車ばかり注文を受ける葬祭業のお客様の会社に来訪する筈だったのだ。
この職種につくまでまるで知らなかったが、霊柩車でさえ流行りというものがあるらしい。
オリジナルティ溢れた外装を所望ということだったが、霊柩車は一台当たりの単価が高いので、少し旧式の持ち車の見目を変えることになっていた。
その打ち合わせの筈だったが、あいにく先方の都合が悪いと急に連絡が入ってしまい、ちょうど月はじめという比較的時間に余裕がある日だった為、ルークは珍しく一人事務所にいることになったのだった。
一人と言ってもあくまで事務所にいる頭数なので、ショールームの方には担当員が個人客に対応している。
たまに事務員が給湯室との行き来と電話応対にやってくるが、それなり広い空間にぽつんと一人でほとんどいることに変わりはなかった。
ルークは書類を相手にするのが苦手で、一人きりでは余計に進みが遅いような気がする。
溜まっていた請求書と稟議書を照合しながら、のんびりとか進まない時計へ目をやろうとした。



少し早足な音がルークの耳に入る。
有線と書類をめくる音以外殆どしないので、その少し騒がしい音は直ぐに気になったのだ。
「ルーク。今、時間あるかしら?」
通路を抜けてこのフロアにやってきたのはティアであった。
珍しく挨拶もそこそこに、急いだ感じで要点を述べる。
「時間?とれなくはないけど。」
立ち上がりルークはティアへと向き直った。
ティアもルークと同じくこの会社に勤めている同僚であった。
男であるルークは比較的外回りに飛ばされることが多いのだが、ティアはショールームでお客様の相手をする内勤を主な仕事としているので、仕事上での接点はそれほど多くはない。
ディーラーと言っても所詮は接客業である。
お客様だって相手してもらうなら、ルークのような只の男ではなく、美人で若い女性がいいにきまっている。
その条件にティアは非常に当てはまっており、しかも見目だけではなく商品知識もしっかり覚えている存在であった。
そんな引っ張りだこなティアは常に忙しいらしく、だから、こうやってルークが面と向かって話しかけられたのは久しぶりだったかもしれない。

「今日、連休初日でしょ?ある程度忙しくなることを見通していたんだけど、予想以上にお客様が多くて…悪いけど手伝ってくれないかしら?」
悩ましげにティアはルークに頼み込んだ。
「そっか。今日ってもう連休に入ったんだっけ…」
卓上カレンダーが見当たらないので、壁にかかった大手の自社宣伝カレンダーにルークは目をやる。
やはり今日は、俗にいう三連休に当たっている。
土日や祝日こそ、自分たちの職種はかきいれ時で、定休日は月曜日なのだ。
もちろん交替で定休日以外も休むが基本は不定期なので、一般的な人様とは少し曜日感覚がずれていると言っても過言ではない。
「今、主任が昼食をとりに行ってるのよ。戻ってきたら交替していいから、大丈夫かしら?」
「ああ。じゃあ行くよ。」
広げた書類をまとめて、横に退けていたノートパソコンの電源を切ったルークは、手早く行く準備をする。
「私は先に他のお客様の相手をしているから、宜しくね。」
ほっとだけ一安心した表情を見せたティアは、そのまま給湯室へ入って行った。
どうやらお客様へ出すコーヒーの準備の合間に立ち寄ったらしい。
ルークも少し気合を入れて、ショールームへと向かった。









微笑を携えながらお客様の横を通るときは軽く会釈をする。
ショールームでは既に、席がほとんど埋まっており、販売員が対面してお客様を相手していた。
親子連れの姿も何組か見られ、特設のキッズルームにはぬいぐるみを転がして遊ぶ子供や、チャイルドシートを組み込んだ試乗車に乗り心地を確認する親御様もいる。
たしかにいつもより混んでいる感じがする。
これは、もちろん喜ばしいことなのだが、これが全て車を買ってくれるお客様ということではない。
自分の勤めている店舗もそうなのだが、車販売店は基本的に近所に他社のライバル店があることが多い。
ここは国道沿いの店舗なのでその様子は明らかで、少し窓へと顔を向ければ、テレビCMで良く見かける他社のロゴマーク入り看板が左右に見られる。
つまり軒並みという形で並んでいるのだ。
車の購入を考えている人は、普通ならば住宅に次ぐ高い買い物ということで綿密に決めているという場合もあるのだが、実際は現物を見たり試乗したりして気持ちが揺さぶられることが多い。
そこをうまく運ぶのが、自分たちの仕事ということだ。
全く買う気がなかったのだが、たまたまこのあたりのショールームを回っていたら、気にいる車に会うことができて喜ばれたこともある。
まあ、ただの冷やかしや、新車が出るたびに試乗車に乗りたがるブラックリスト行きの人物もいないわけではないが。

ルークは手伝いに入ったわけだが、たまたまお客様の足もひと段落したらしい。
自分以外の販売員は軒並みお客様の相手をしているのでルークはショールームを歩きまわることになる。






「いらっしゃいませ。」
無造作に開かれたカタログをトントンと整理してしている最中、正面の扉が開く機械音がした。
新人研修時代から反射的に培われた挨拶と笑顔を、業務用にルークは振りまいた。

(って、えぇ!?)
そのまま変な声を出さなかった自分は相当偉いと勝手に思った。
新たに入って来た男性に、ルークは非常に見憶えがあったからだ。
いや、見憶えという曖昧なレベルではない。
数十分前には休憩がてらに見ていた顔だからだ。
ただし、それは本人ではなく写真の中…もっと詳しく言うとコンサートパンフレットの中でということになるが。










そこにいたのは、あの『アッシュ』だったのだ。















アトガキ
2009/10/02

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