オール電化 ハウスクリーニング      ル フ ラ ン     
  ルスランとリュドミラ  1










響く。集う。音々−−−
自らが奏でるヴァイオリンの音色がどこまでも伝わる。
これ一つさえあれば、自分の人生に曇りなどないと、そう思っていたんだ。

でも、現実は…









「失礼します。ピオニー社長、新車の見積書をお持ちしました。」
いつものように受付から通された社長室で、名乗りを上げた後、ルークは目の前の社長に一礼しつつそう言葉を出した。
「おおっ、ルーク。わざわざすまねぇな。FAXでも良かったのに。」
感嘆の声を上げたまだそれほどの年代ではないピオニーは、この建設会社の9代目社長であった。
社長に就任してからまだ日は浅いが、次期社長とうたわれていた時から優秀と言われていた。
未だ結婚をしていないが、ピオニーが元気な限り会社は右肩上がりであろう。
気さくな性格でもあるピオニーは、自社の車関係を担当しているディーラーのルークをものすごく気にいっていたのだった。
「いえ、この不況下に新車の購入を考えてくれるだけでも、当社としてはありがたいことです。是非ご覧下さい。」
クールビズ真っ盛りなピオニーとは違い、ルークは上着も脱がずにきっちりスーツを着込んでいる。
それだけこの商談が大切なことを物語っていた。
「そうだなぁ。まぁ、とりあえず三台ぐらい購入するつもりなんだが、今の若い奴はセダンなんか好みじゃねぇよな。どうすっか。」
手渡された見積書の表紙をぺらっとめくって、ピオニーは机に肘を立てながらがしがし考え込む。
そこにはルークがリストアップして来た車種がカタログ付で並んでいる。
「若い方ですか?」
ルークも20代だし十分若い部類に入るのだが、思わぬ世代の話が出て、ピオニーの言葉を反復した。
「あぁ。今年、うちの会社は思ったより利益がでそうなんだ。今から節税準備したいから、来年の新入社員用に三台購入しておこうと思ってな。未払計上するから金はすぐじゃなくてもいいんだろ?」
今度は引き出しから出した、中間決算用の書類を渋い顔でにらめっこしながら尋ねる。
「はい、それは構いません。昨年から固定資産の償却率が変更になりましたから、今買うのはいいことだと思いますよ。」
そう言いながらも、しかし羨ましいものだとルークは思った。
内定をもらっているとはいえ、もう入社してから乗る車を用意してもらえるだなんて…自分の給料は決して薄給というわけではないが、やはりご時勢の波に乗れない自動車業では建設業に見劣るのだろうと思った。
「よっしゃ。じゃあ、次の会議で幹部連中にも聞いてもう少し考えてみるわ。あとで電話するから、ヨロシクな。」
「はい。こちらこそ宜しくお願いします。」
ひらひらと手を振るピオニーに、ルークは声を上げる。
本当にありがたい。
ルークの勤めているディーラーは、外国車であった。
一般的なステータスとしての当社の売りは、やや高級車な部類に入ることと、いざ事故を起こしたときの頑丈さだ。
この国では、自社メーカーが有力で外国車などほんの一握りのステータスとして用いられている程度であった。
それを会社の車全部をうちのメーカーで買ってくれるというのだから、頭が上がらなすぎる。
まして今は間近に迫る月末。
どこの業界でもそうだが、営業であるルークにももちろんノルマというものがある。
サービス云々よりやはり売れた車の台数が社内には重要なのだ。
伸びない棒グラフはそのまま自身の評価につながる。
一応、今月のノルマはクリアしているが、来月以降の見通しが立つということは多少心の余裕ができるものだった。
それにうちのメーカーはノルマがイコール賞与に直結している。
次のボーナスへのほんのわずかな期待が膨らむ瞬間でもあった。
「あ、そうだ。悪いけど、ちょっと俺の車の様子見てってくれないか?なんかエンジンの調子がおかしいんだよなー」
そう言って、ピオニーはぽーんとルークへ鰐皮のキーケースを投げた。
孤を描いた鍵を見事にルークはキャッチする。
「はい、わかりました。それでは失礼します。」
再びルークは一礼をし、うやうやしく退室した。



勝手知ったるというわけではないが、ピオニーの車の様子を見るのはルークのいつもの仕事であった。
受付に声をかけると、社員用の車庫への扉を開けてくれたので、足を踏み入れる。
ずらりと立ち並ぶ社有車の数々は全てうちのメーカーの車だったので、少し壮観でもあった。
社長の車は入口のすぐ側と決まっている。
早速様子を見ようとして、まず青い車体のボンネットへと手をかけた。
「ん?ルークじゃありませんか。」
「ジェイド取締役、お久しぶりです。今お戻りですか?」
歩み寄ってきたジェイドの姿を見て、ルークは向き直って挨拶をした。
「えぇ、あのたまーにしか働かない社長の尻拭いをしに少々ね。あなたは、また社長に呼びつけられたんですか?」
頻度には感心しませんねぇと言いたげに、ジェイドは聞いた。
「新車の見積書を渡しにお邪魔したら、お車の調子が悪いと伺いまして。」
「そうですね。私もその車をたまに運転させられるのですけど、確かに先週あたりから違和感がありましたねぇ。ああ、私に気にせず作業を続けて下さい。」
手が止まってしまったルークへジェイドは一声かける。
「では、お言葉に甘えて…」
そう言ってルークは車のドアを開けて、ガチャッと内側からボンネットのロックを外した。
そのまま車の前面に回り込み、ボンネットを開く。



「手早いですねぇ。」
作業に集中するルークの様子を横から覗き込んで、ジェイ度は感嘆の声をひとつ上げた。
「いえ、俺なんて今は実際の作業現場を離れていますから全然ですよ。」
ルークは、自分の車から持ち寄った道具片手に答える。
その間も丹念に点検をするルークの手は止まらない。
「あなたは知らないと思いますが、あなたの前任者は車の説明をするだけで修理なんて何も出来ませんでしたよ。」
別にルークが来る前はそれが当たり前だったから気にしなかったが、こんなこともできる営業もいるとは少しジェイドは今でも驚いている。
ルークがピオニーに気に入られているのも、ルークの気質の良さももちろんあるだろうが、それ以上に他社のディーラー営業より優れたことが出来るからでもあると知っている。
「俺は最初、修理工場にいましたからね。でもそれほど器用じゃありませんでしたから、営業に回されたんです。今はこっちの方が合っていますけどね。
さてと、これで大丈夫だと思いますが、少し試乗しますね。」
バタンッとボンネットを閉めて、ジェイドへと伝えた。
油で汚れてしまった手を洗ったら、会社周辺を少し乗り回してみるつもりだった。
「ええ、宜しくお願いしますよ。」








さすがに少し疲れたかもしれない。
「ただいまー」
砕けた口調になるのは、自分の会社に戻ってきたからだ。
表は一般の客も出入りするから油断などしないが、ここは裏の社員用口でしかも時間帯も店舗の営業時間をとっくに過ぎているとなれば、いつものルークの声が出るというもんだ。
「よぉ、お帰り。遅かったな。」
コーヒー片手に給湯室で声をかけてくれたのは、ルークの少し先輩にあたるガイであった。
ルークがこの会社に入社して右も左もわからない状態で、色々と指導してくれたのはこのガイだったので、今では一番仲が良くうちとけている。
「うん。でも来月のノルマも確保できそうだし、今のところは順調かな?」
「良かったな。しかし、最初うちの会社に入った時からすれば、まるで聞けるとは思えない言葉だなぁ。おまえ、工業関係の大学や専門を出たわけでもなかったから車に対して興味もねぇし、何でここにいるかわかんないぐらいだったからなぁ。つーか、目が死んでた。」
よくここまでなってくれたもんだと、わが子を見守る母のようにガイはつぶやく。
だからガイから見たルークの第一印象はすこぶる悪かった。
やる気のあるようなないような態度で、何度かキレた覚えもある。
今でもどこかルークがこの場に不釣り合いと見えることさえあるのだ。
「…昔のことは言わないでくれよ。」
「ま、そうだな。お前も仕事ばっかりじゃなくて、少しは気分転換した方がいい。そうだ!確かさっき…」
話をぽんっと切り替えるようにガイは明るく言った後、ガイはコーヒーを右手に持ったままその場を離れる。
そのついてこいという仕草に、ルークは不思議に思いつつも小走りしている後を追う。
ガイが向かったのはオフィスの自分の机だった。
ほどほどに整理整頓してある卓上にはさして無駄な物は乗っかっていない。
ただ、ガイは横の引き出しをがらりと開けて、一つの白い封筒を取り出した。
「これ、お前にやるよ。俺はそんなに興味ないしな。」
その封筒をぽんっとルークに手渡したガイはそう言いだす。
「何、これ?」
訝しみながらも一声かけてから封筒の中身を確かめる。
それほど厚みがない封筒からは1枚のチケットが飛び出ただけであった。
「地元の交響楽団のコンサートチケットだ。毎年恒例で、生命保険会社がくれるチケットがあるだろ。今年はクラシックだったんだよ。」
「毎年恒例…あ、おととしは落語のチケットだったっけ。俺それに行った記憶がある。」
思いめぐらせてルークはたどりつく。
うちの会社が入っている生命保険会社は妙に色々と物入りをする傾向があって、毎年恒例のチケットが何かしらあるとルークは聞いていた。
ルーク自身も会社から生命保険に入れられているらしいが、なにせ全体から見れば下っ端な部類に入るのでチケットがまわってくるなんてことはあまりなかった。
今回ももちろん聞いていないし、それに本当は社長とか重役が行くようなものらしい。
「ああ、今年は専務が行くつもりだったらしいんだが、ちょうど接待ゴルフが入ったらしくてたまたま目に止まった俺に行けって言われて困っててさ。行くならある程度感想を提出しなくちゃ行けなくて…俺機械いじりは好きだけどクラシックにそれほど馴染みないからさ。その点、ルークは音大だろ?」
「え…あ………」
ルークは少し悩んだため即答が難しかった。
正直嫌で、感想を提出するとか仕事だとか、そういうことはどうでも良かったのだが、クラシックを聴くということ自体が微妙に遠慮したかったからだ。
「俺を助けると思って頼むよ。」
少し懇願するように手を合わせてガイは頼み込んだ。
「………わかった。行くよ。」
いつも助けてもらっているガイからのたっての頼みだ。
断ることなんてとても出来るものじゃなかった。
「ありがとな。じゃ、ヨロシク。」






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






会場に着いたのは開演時間ギリギリだった。
悪いがあまり乗り気ではなかったことが少々のタイムロスをして原因だった。
場所は職場近くにある音楽ホール。
名は知られているがそれほど真新しいわけでもなく、こじんまりとしている。
この交響楽団は別に格式があるわけではなく、月に何度か定期的に行われている演奏会なので、雰囲気はのんびりした印象だ。
同じく遅れて入っていく人に続いて急ぐようにルークは、会場に入った。
受付でチケットを手渡すと薄手のパンフレットや広告のチラシ一式を渡される。
ここに来るまでどんな曲目が演奏されるのか知らなかったルークはパンフレットに目を通しながら二階の指定席へと向かった。
やはり中はそれほど広いホールではなかった。
ただ会場には空席がないほど人が埋まっており、皆始まりを待っている。
ルークも一応、この交響楽団の名前を知っている。
全国的に有名などではないが、地域の地名がついているし広報などを見ていると自然と名を見ることがあるからだ。
ただ、演奏を聴くのは今日が初めてである。
オケの曲目は三曲。途中、休憩後にヴァイオリンのソロ演奏があるらしい。
選曲は悪くない。
玄人好みのマイナーな曲もあれば、ここ最近のクラシックブーム火付け役となった誰もが知っている曲も入っている。
ルークが席につくと、拍手とともに演奏者が場に出てくる。
最初の曲は、パウル・ヒンデミット作曲 交響曲『画家マティス』
背もたれに身を落ち着かせ、ルークは目を閉じた。



………
悪いが、自分はクラシックに興味がないというわけではないから、眠くなったりはしない。
いや、目を閉じたのは音楽に集中したいというわけではなく、あまり感心出来なかったからだ。
出来れば多少肩をすくめたくもあったが、両隣に他人が座っている以上、それもマナーとして出来なかった。
はっきり言おう。演奏はイマイチであった、と。
それは素人が聞いても微妙と思うんじゃないかというくらいな印象。
特に突っ込みたいのは、1stヴァイオリンであるコンサートマスター(コンマス)だ。
どうしてオーケストラだというのに、優雅独尊一人で突っ走る演奏をするんだと、頭が痛い。
コンマスとして他の演奏者、特にヴァイオリンを引っ張るつもりは本当にあるのかと疑問に思うくらい、まるで自分に酔っているような独創的な演奏であった。
すべてが悪かったわけではなく、後方でひっそりと演奏していたコントラバスなどは目立たないが良い演奏もあった。
しかし全体的にみるとどうも足並みがそろっていない。
これはもしかしたらし指揮者にもよるのかもしれないが、結局イマイチという評価を下したくなる。
次の曲は、ミハイル・グリンカ作曲 歌劇《ルスランとリュドミラ》序曲
実はルークが一番好きな曲で、曲目を見た時は内心喜んだものだ。
しかし今では喜べない。
これはかなり有名な曲で見知っている人も多いが、それ以上に演奏の難しい部類の曲なのだ。
弦楽器が主体なことを考えると、これから先の演奏の期待はまるで出来ない。
そして始まる曲は−−−案の定であった。
やれやれと、ルークはこの始まりから思い出す。
そもそも保険会社から貰ったチケットというところで、既に期待をすべきではなかったのかもしれない。
二年前の落語のチケットも、今回のように巡り巡ってルークの元にやってきた。
その時はガイから言われたわけではなかったが、性格的に断れなくて、行った。
辛かった。ぶっちゃけ眠かった。
誰でも知ってる有名な落語家の公演ということで素人ながら、胸躍らせて聞きに行ったら、また前座が長い長い。
それも一人や二人ではなく、何人も次々出てくる。
表題となった落語家が出てきた頃には、なんだか疲れてしまった。
面白くないのに無理に笑うのは、辛いと結論に至ったのだ。



パチパチパチ
考え事をしている間に曲は終わったらしい。
どうしよう…帰ろうか。
とりあえず半分終わって二曲聞いたのだから、もういいような気がする。
会社に提出する感想は、もちろん素晴らしかったですと書くだろう。
結局意味がないのだ。
休憩時間が告げられたので、飲み物を買いに席を立つ人もいたが、異様に疲れたルークはそんな気分にもなれず、席に立ち止まったままだった。
それに元々のり気ではなく演奏が微妙とはいえ、帰るという選択肢は安易にしていいものでもない。
とりあえず期待をせずに、いようと決め込んだ。
しかし、どうしたものか。
次の曲は、ヴァイオリンによるソロ演奏だ。
さっきのルーク好みではないコンマスが出てきての演奏だったらどうしようか。
いや、ここは発想を変えてみよう。
さっきはオケだったから合わなかっただけだ。
ソロならば輝ける演奏だ、と。
そう思いぐらいしか救いが見当たらなかった。
そんなことを考えているうちに、指揮者がヴァイオリニストの経歴を話しているらしいが、ルークの耳には全く届いてなかった。
申し訳ないが興味がさほど湧かなかったから。
ただ、次に彼が出てきた瞬間、盛大な拍手がまきこったので、ルークはびくりと肩を震わせた。
二階席からではよく見えないが、出てきたヴァイオニストは先ほどのコンマスではなかった。
まだ若い男性で、年のころはルークと同じぐらいだろうか。
長く伸びた髪がゆらりと揺れる。
ともかく演奏が始まる前から他の観客は異様に沸き立った。
一呼吸おいて、調弦が始まると一瞬で静かすぎるほど会場は鎮まる。

曲は、モーリス・ラヴェル作曲 演奏会用狂詩曲「ツィガーヌ」
とパンフレットを見て、ルークは知っていた。
知っていたはずなのだ…それなのに………



まるで別世界の音楽のように、流れる音色が訪れた。
解釈によって同じ曲でもまるで変わると当たり前なことを今さら思い知る。
生きている世界が違うのかと思った。
うまいとかそういうレベルではなく、ただ音に包まれた。
この曲は、しとやかなだけな曲調ではなく、技巧が際立ち、低く重い音が重にも重なり、後半のピッツィカートが冴えわたる。
それは、色褪せていた脆弱な自分を鮮やかに色を変え、脳を揺さぶった。
ルークは、この心に響く音楽の正体を掴めなくいた。
生きている音楽が、ゆさぶりをかけて否応なしに身体を巡るのだ。
もう捨てた筈のヴァイオリンの音色が奮い立ち、目覚めた。
あぁ、俺はヴァイオリンが好きだったのに…どうして

呆然と聞き入っている間に次の曲へ移る。
そして、長い指が止まると演奏が綺麗に終わり、その後は次々に観客が立ち上がって盛大な拍手を送り続けた。
ルークは立ち上がり、拍手をするのも忘れて彼に見入った。
その彼の姿が見えなくなると、はっと我にかえって慌てて、今まで見過ごしていた名前をパンフレットで見た。












「アッシュ…」
短く書かれたファーストネームを反復することしか、今のルークにはできなった。















アトガキ
2009/07/05

menu
next