地平線を妨げるものが見つかるとは思わなかった。 「アッシュ殿下。どこに行かれるのですか?」 ふいっと後ろを向いて勝手に準備を始めたアッシュを見て、慌てたた様子で兵士が声をかけた。 ここは戦場で、ルグニカ平野の荒地の一角に野営を築いている場所。 悪く正直にいえばマルクトとの戦争中で、カイツールを北上し戦線はどんどん伸びている最中であった。 「お目付け役は大変だな。安心しろ。おまえの点数が下がるようなことはしないさ。」 お側付きの青年兵士にアッシュは微妙に皮肉を言ってやる。 彼に八つ当たりしても意味はないとわかっていたが、ついに出た言葉でもあった。 事態に辟易していたせいで、いつもは冷静だったが、じっとなんてしていられない体質になる。 未だ制止の声は後ろで聞こえていたが、軍馬にまたがり、あっというまに振り切った。 駆け抜ける平原は青々しているというのに、気持ちは一向に晴れないでいた。 アッシュはキムラスカ・ランバルティア王国の第三王位継承者であったが、まさか十七歳になっても何もさせてはもらえないお飾りにされるとは思っていなかったのだ。 今回のマルクトとの戦争に至る出兵でも、周りは反対したが半端無理やりついて来たようなものであった。 それでも前線には立たせてもらえず、仕方なくの場所を与えられた程度だ。 安全地帯だと言われている場所を颯爽と馬を走らす。 荒廃した大地に広がる地平線はどこまでも続いて水平線へと至るような錯覚さえ思えた。 今日は、これが見れただけでも少し気が晴れたかなと思い、アッシュは踵をかえそうとしたが、黒い障害物を目にした。 最初は不審げに近づいたのだが、やがてそれは戦場に咲く一輪の花となる。 「おい、大丈夫か?」 「う゛…」 違和を感じた物体は、土色になってしまった布地を身にまとい地面に転がっている薄汚れた細い少年であった。 かろうじて息はしているが、意識は…酷く衰弱をしている。 危険な状態になっていることが、医療知識にそれほど詳しくもないアッシュに出さえわかるほどであった。 どこかに運ばなくてはと少年を拾い上げるが、アッシュがやってきた野営地からこの場所は随分とは離れている。 どうしようかと、頭を悩ませたところ、前方にか細い煙が見えた。 あの方向は確か食料の村、エンゲーブ。 敵国であるので戸惑いもあったが、人命以上に勝るものはない。 近くの森に軍馬を隠すことにしてアッシュは運び込むことにした。 見知らぬ部外者が村に訪れたことに僅かに沸き立ったが、怪我人を一緒に連れているなら、話は別だったらしい。 直ぐに医者を呼ばれて、快く見てくれたのはローザという女性の支持によってだった。 幸い、アッシュの正体はバレていないようで、ほっとした。 元々他国の王族だし、それほどアッシュの容姿は世間一般に知れ渡っていない。 少年との組み合わせというのも、狙っていたわけではないが気がつかれなかった要因だったのかもしれない。 「いやぁ、危ないところだったけど、外傷は酷くないさ。ちょっと栄養失調だったみたいだけど、もう大丈夫さ。」 うちの村も食料を軍に渡さなくちゃいけなくてね。そりゃ他の村にくらべりゃマシだけど、食料が行き渡ってなくてね。とローザは言葉を続けながら、少年を自宅のベッドに寝かしつけた。 「助かった。村の近くに倒れていたんだが、両親はどこにいる?」 位置的にもてっきり近くの子だろうと決め込んでアッシュは尋ねる。 あの状況に陥った理由を聞きたかったから。 「それがね…この子は今回キムラスカが攻めて来たせいで出来た孤児みたいなんだよ。」 覚えがないという様子で、さびしそうにローザは言った。 村長としてすべてを把握できていたわけではないが、戦争によって人の出入りが激しくなった村で、見かけたことがある子だったような気もする。 一応、村民に両親の心当たりを一通り聞いて回ったが、反応はなしのつぶてだったのだ。 「…孤児か。」 ずしりと重い言葉がのしかかり、アッシュはその言葉を反復した。 この子だけではなく、孤児なんてたくさんいることはわかっているが、こうやって現実を目の当たりにする機会がたくさんあったわけではなかった。 マルクトとの戦争自体は、自らが進んで引き起こしたわけではないけど、それでも王族としての責任を感じる。 アッシュはゆっくりとベッドに歩み寄った。 土にまみれた先ほどはよく気がつかなかったが、洗い流された長い赤い髪はちりばめられており、見違えるほど綺麗な少年だった。 人の気配を感じたせいが、ぼーっとしていたが、少年の瞳が開く。 きょろきょろと事態を把握していないように、辺りを見回し始める。 「おい、おまえ。自分の名前がわかるか?」 意識確認のためにアッシュは名を尋ねた。 しかし、少年はふるふると頭を振っただけで、それ以上の反応を見せなかった。 意味はわかっているようだけど、本当にわからないのだろう。 もしかしたら戦争によって巻き起こったショックで記憶の一部失ってしまったのかもしれないし、元々満足な教育を受けていなかったのかもしれない。 少年が手にしている者は限りなく少ない。 身一つ以外の何もないのだと、悟った。 「そうだな…じゃあ、おまえの名前は、今日からルークだ。」 光に照らされた姿を見て、アッシュは無意識にその言葉が出ていた。 名前を与えるなんて行為をしたのは初めてのことだった。 容姿は僅かに似ているのに、全然違う存在。 それは、アッシュ自身が初めて自分の手で入れたものだった。 「母上。今日、アッシュはいつ頃帰ってくるんですか?」 きょとんとした顔でルークは尋ねる。 「まあ、ルークはいつもアッシュのことばかりね。安心しなさい。王城へ謁見に行くだけと言っていましたから、直ぐに戻ってくると思うわ。」 頬笑みながら答えたシュザンヌの顔には、溢れるばかり喜びがあった。 目の前の少年の名はルークという。 推定年齢7歳で、誕生日はアッシュがルークと出会った日ということになった。 珍しいアッシュの気まぐれの産物かと思っていたが、占領したエンゲーブを視察で再び訪れて、ルークを引き取って育てることになったのだ。 まさか、あの固いアッシュが、少年を拾って屋敷に連れてくるなんて、シュザンヌは最初、夢のまた夢かと思ったくらいだった。 潔癖な性格のせいで、今までペットさえ飼ったことはなかったから、非常に驚いたものだ。 夫であるファブレ公爵は最初騒然として反対したのだが、今まで我が侭らしい我が侭を言ったことのなかったアッシュの、最初で最後の我が侭かもしれないと、諭して何とか納得してもらった。 結果は良かった。 ルークという存在のおかげで、アッシュの性格も次第に丸くなっていくのが日に日に目に見えたものだ。 殆ど何も分からない状態だったルークは決して利発な子供ではなかったが、次第にアッシュとはまた違って活発で元気のよい子になった。 「じゃあ、俺は門の前で待ってます。」 戻りが早いのだと知ると、ぱっと顔を明るくして扉を開けてルークはトタトタと走る。 そこにいたるまでも、メイドにほがらかに声をかけられたりされた。 この生活にも慣れたと言うと、それは少し嘘になって、自分が凄い環境にいるということは、さすがにルークもわかっている。 この暖かさをくれたアッシュのことが、大好きで仕方なかったのだ。 門にいる白光騎士団兵に声をかけると敬礼されるので、こちらもし返してみると、鎧の向こうで少し笑われたような気がした。 外に出ると青い空が無限にも広がり、天空へと浮かぶのは譜石を伴った音譜帯だと、昨日家庭教師から習った。 綺麗だなあと、呆然と見上げる。 昔のことは全然覚えていなくて、理解をしていないという面もある。 ルークの全てはアッシュに拾われた時から始まって、それでいいと思っていたのだ。 だから… 『………ル…、…ルーク…』 「ん?」 空からの呼びかけを受けて、忘れていた記憶が、今目覚めることを、素直に喜べはしなかった。 アトガキ 2008/11/28 menu |